阿麻和利(あまわり)は、現代版組踊「肝高の阿麻和利」や、沖縄の伝統芸能である組踊の『二童敵討』などでも取り上げられている歴史上の人物です。
沖縄県うるま市にある勝連城、最後の按司(あじ」)でもあります。
阿麻和利は、何故、これほどまでに人々の注目を集めるのか?
この記事では、阿麻和利とはどんな人だったのか?
彼が滅ぼされるきっかけとなった「阿麻和利・護佐丸の乱」とは何か?
どのような最後を迎えたのか、などについてまとめました。
是非、最後まで読んでください。
阿麻和利とは、どんな人物か?親に捨てられた幼子が勝連城主になるまで
阿麻和利は、2000年に世界遺産に登録された勝連城趾(かつれんじょうし)、最後の按司です。
阿麻和利は非常に謎の多い人物です。
生まれた年は不明。没年は、1458年。
生まれた場所は、現在の嘉手納(かでな)町、屋良。
当時は、北谷間切屋良村(ちゃたんまぎりやらむら)と言われていました。
子供の頃の童名は、加那(かなー)。
阿麻和利の両親については諸説あります。
中北山の末裔、大川按司(おおかわあじ)と、南山末裔の兼城若按司(かなぐすくわかあじ)の娘との間に生まれた、という説。
あるいは、「阿麻和利・護佐丸の乱」で知られる護佐丸,(ごさまる)と農民の女性の間に生まれたのでは、という説。
「阿麻和利・護佐丸の乱」については、後で詳しく説明します。
もしも護佐丸と阿麻和利が、親子だったとしたら…。
琉球王府の勢力争いに巻き込まれ、敵対する関係になってしまったと父と子、ということになります。
非常に興味深い話ですね。
私は、阿麻和利について書かれた本をあれこれ読んでいますが、とにかく色々な説がありすぎる!
裏を返せば、それだけ阿麻和利という人物は歴史家の関心を惹く魅力があるということでしょう。
私もその魅力にとり込まれた一人です。
阿麻和利は蜘蛛の巣によって九死に一生を得た!?
幼い頃の阿麻和利は、歩くのもままならないほど体が弱かった、と言い伝えられています。
そのため、”屋良ムルチ”と言われる湿地帯のガマ(洞窟のような場所)に捨てられてしまいます。
一体、どのようにして生き延びたのでしょうか?
阿麻和利は非常に才知に長けた人物だったそうです。
それを示すエピソードが、蜘蛛が巣を作る様子を見て魚網を思いついた、というもの。
そうして餓死寸前だった阿麻和利少年は、九死に一生を得ました。
また、自分だけでは食べきれない魚を人々に分け与えた、とも言われています。
そうやって人々を助け、自らも助けられながら成長していったのでしょう。
親に捨てられたら、私だったらもっとすねた人間になってしまいそうです。
しかし阿麻和利はそうではなかったのですね。
自分が大変な思いをしたからこそ、人に対しては優しさと思いやりを持っていた。
幼少期の辛く孤独な体験。
それが、人々から慕われた按司としての阿麻和利のバックボーンなのかもしれない。
私はそんなふうに思います。
悪政に苦しむ民を救い、勝連の按司となった阿麻和利
成長した阿麻和利が、どのようにして勝連の地にたどり着いたのか、詳しいところは分かっていません。
いずれにしろ、勝連に流れついた阿麻和利は、地元の人々に魚網の作り方を教えたり馬飼をして信頼を得ていきます。
一方、当時の勝連は9代目按司、茂知附(もちづき)の悪政下におかれていました。
苦しむ民をみて、阿麻和利は持ち前の機転を働かせ、一計を講じます。
それは、武力を使わずして茂知附按司を討ち取る作戦でした。
いくら人々が苦しんでいるからといって、按司を倒そうと考えるとは。
阿麻和利はとても勇敢で、もしかしたら正義感もとても強い人だったのかな、と私は感じます。
さて、阿麻和利が考えついた作戦とは以下のようなもの。
ある晩、農民達に松明を持たせ、城に向かって行進させる。
茂知附按司には「敵が攻めてきました」と慌てた様子で報告する。
不意をつかれ、うろたえる茂知附按司を成敗する。
そんな作戦でした。
茂知附の最後は、阿麻和利によって高い城壁から突き落とされた、
或いは、茂知附自らが足を滑らせ落下した、などの説があります。
いずれにしろ、阿麻和利は勝連の民と一致団結し、武力に頼らず茂知附を討ち取りました。
武器もなく、戦いにも慣れていない農民が、按司を相手に勝てる可能性は低い。
そこでこのような作戦を思いついた阿麻和利。
阿麻和利の頭の良さがよくわかるエピソードですね。
阿麻和利は民に慕われた英雄か?「おもろそうし」にみる阿麻和利像
勝連地域を繁栄に導いた英雄としての阿麻和利像
10代目の勝連按司となった阿麻和利。
沖縄で最も古い歌謡集、「おもろそうし」には、阿麻和利を名君と讃える歌がいくつも残されています。
阿麻和利という名前も「天降り(あまおり)」がなまったものではないか、と。
勝連の人々から「天から降りてきたような」存在として崇められていたのでしょうか?
勝連の按司となった阿麻和利は、アジアと盛んに貿易を行い勝連地域を繁栄に導きました。
勝連城趾では、数年前に古代ローマのコイン(4世紀のもの)が発掘されています。
コインが出土した地層から見て、阿麻和利が生きた時代のものだろうとのこと。
阿麻和利が生きた時代よりもはるか昔の時代のコイン。
それがなぜ、勝連城趾で発見されたのか?
どういう目的でそれを勝連が所持していたのか?
その理由はわかっていません。
ですが、勝連が異国の珍しいものを手に入れる幅広い貿易ルートを持っていたことや、
スケールの大きな視点で勝連の未来を思い描いていたことは確かでしょう。
この歌は、勝連の繁栄を日本の鎌倉に喩えるものです。
大和の 鎌倉に 譬ゑる
又肝高は 何にぎや”
「勝連のこの豊かさと賑わいは何に譬えたら良いだろう。
それは大和(日本)の鎌倉に譬えるほどだ。
肝高(志が高い)の勝連の賑わい、なんと立派なことよ。」
勝連地域がかつて異国と活発に交流し賑わっていたとは、
ほんの十数年前の勝連を知っている私からすると驚きです。
なぜなら、私が初めて勝連の地域に足を踏み入れた時の印象。
それは、「昭和にワープしたみたい!」
古い建物が並ぶ「うら寂しい町」、といったものでした。
それが今では、「あまわりパーク」や「うるマルシェ」などの施設ができ、地元の人や観光客で賑わっています。
この賑わいをもたらしたきっかけの一つは、現代版組踊「肝高の阿麻和利」。
500年もの時を経て、阿麻和利は勝連地域に再び繁栄をもたらした…
私はそう感じます。
考えれば考えるほど、すごい影響力を持った人物です。
しかしその一方で、阿麻和利を完全な「悪者」「策略家」とする見方もあります。
個人的には賛同できませんが。
護佐丸を死に追いやった悪人?「阿麻和利・護佐丸の乱」にみる阿麻和利像
忠臣、護佐丸をだまし、王府に謀反を企てた逆賊としての阿麻和利像
先ほど触れた「阿麻和利・護佐丸の乱」についてご紹介します。
これは、王位を狙う阿麻和利が自身の野望を遂げるために、邪魔だった護佐丸を陥れ死に追いやった、というもの。
琉球王国最初の歴史本「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」では、阿麻和利は”悪人”なのです。
「阿麻和利・護佐丸の乱」の概要
当時、琉球王府は、急激に頭角を表した阿麻和利を危険人物とみなしていた。
そのため、護佐丸に阿麻和利の監視役を命じた。
護佐丸は、三山統一の際、尚巴志(しょうはし)と共に戦った名将。
読谷村の座喜味城(ざきみじょう)から、勝連が見渡せる中城城(なかぐすくじょう)へと居を移した護佐丸。
阿麻和利にとって、護佐丸は首里の前に立ちはだかる障壁。
そこで阿麻和利は、当時の王、尚泰久(しょうたいきゅう)に虚偽の進言をする。
「護佐丸様が謀反を企てている」と。
尚泰久王は半信半疑ながらも、「護佐丸を討て」と阿麻和利に命ずる。
無実の罪をきせられた護佐丸は、身の潔白をはらすため、応戦せず自死。
護佐丸亡き後、勢いを得た阿麻和利は王府に攻め入ろうとするが、逆に討ち取られる。
妻と家臣に裏切られた?阿麻和利の最後
護佐丸亡き後、勢いを得た阿麻和利は首里に攻め入ろうと企てていた。
しかし、結局は、大城賢雄(うふぐしくけんゆう)率いる王府軍により滅ぼされました。
大城賢雄は、尚泰久王の娘、百十踏揚(ももとふみあがり)が、勝連に嫁いできた際に、付き人として勝連にきた人物です。
付き人であるだけでなく、王府のスパイだったとも言われています。
さらに、百十踏揚と親しい仲だったのでは?という驚くような説もあるのです。
このような推測がなされるのには理由があります。
一つには、王府軍が勝連に攻め入る前、大城賢雄は事前に百十踏揚を背負って首里まで逃げ帰っていること。
もう一つには、阿麻和利亡き後、大城賢雄は百十踏揚を妻にしていること。
実は阿麻和利は、王命により勝連城を長い間、留守にしていた時期があります。
伊平屋島に城を造るよう命じられたのです。
阿麻和利が不在だったその時期に、大城は勝連城内をくまなく調べあげ、その上、百十踏揚とも急接近したのではないか?
もともと大城賢雄と百十踏揚は幼馴染で、昔から恋仲だったのでは?という見方もあります。
参考文献:「真説阿摩和利考ー歴史と伝承を探るー」高宮城宏著(2000. うりずん企画)
真実のほどはわかりません。
しかし「阿麻和利・護佐丸の乱」で自害した護佐丸の妻は、護佐丸とその運命を共にしました。
それにくらべ、百十踏揚は城が攻め入られる前に、逃げ出してしまっています。
それを思うと、阿麻和利が妻と家臣から裏切られた可能性は皆無ではなさそう、と個人的には思ってしまうのです。
王府軍に攻め入られた阿麻和利は、生まれ故郷近くの読谷村まで逃げのびますが、討ち取られてしまいました。
阿麻和利の墓。故郷のそばでひっそりと眠る悲劇の按司
阿麻和利のお墓は、読谷村楚辺(そべ)の住宅街にひっそりとたたずんでいます。
首里王府が脅威に感じるほどの人望と栄華を極めた按司のお墓にしては、質素なものと言わざるを得ません。
「侘しい」という見方もあるでしょう。
しかし親に捨てられた子供が、勝連の民草から慕われる按司となり、栄華を極めた。
これは人の人生としては、ものすごい大成功だと個人的には思います。
もちろん、もっとやりたいことはあったでしょう。
勝連城から逃げ出した時、阿麻和利は再起する強い意志を持っていたかもしれません。
しかし波瀾万丈の人生から解放され、今は心安らかに眠っているのではないか、と私は感じます。
なぜなら、このお墓を訪れた時、私はとても穏やかで良い氣を感じましたから。
まとめ
以上、阿麻和利についてまとめました。
「おもろそうし」で歌われていたような英雄だったのか?
それとも「中山世鑑」に記録されているような逆臣だったのか?
これほど対照的に語られる人物も珍しいのではないかと思います。
しかしいずれにしろ、阿麻和利が勝連を繁栄に導き、人民から慕われた人物であったことだけは確かでしょう。
今後も、阿麻和利についての研究が進み、彼の真の姿に近づけることを願ってやみません。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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