百十踏揚 家系図 祖父・父・夫・子孫など分かりやすく解説

沖縄の歴史

 

15世紀頃、当時の琉球王国に生きた一人の王女、百十踏揚(ももとふみあがり)。

国王の娘として生まれ、最後は都落ちした彼女。

時代の波の翻弄された”悲劇の王女”と言われています。

この記事では、彼女を取り巻く歴史上の有名人物の相関関係を分かりやすくまとめています。

琉球王国建国に貢献した祖父、護佐丸。

逆賊とも英雄とも言われる謎の人物、阿麻和利。

王府の役人としての成功から一転、王府によって焼き討ちにあった大城賢雄など、

百十踏揚の家系図を解説しています。

最後まで是非、お読みください!

 

百十踏揚 家系図 祖父 護佐丸

百十踏揚の祖父にあたる人は、護佐丸(ごさまる)。

護佐丸の娘(名前不明)が、百十踏揚の母親ということになります。

護佐丸の生まれ年は不詳ですが、1390年頃と考えられており1458年没。

「阿麻和利・護佐丸の乱」で、王府から謀反の嫌疑をかけられ、身の潔白を証明するため自害した、と言われています。

護佐丸は琉球王国第一王統2代目国王、尚巴志(しょうはし)とともに、三山統一を成し遂げた英雄。

今でも、その名前は広く知られています。

ちなみに、護佐丸は築城家としても有名。

世界遺産の座喜味城趾(ざきみじょうし)や中城城趾(なかぐすくじょうし)は、

護佐丸によって築城されました。

私は座喜味城趾が好きでよく散歩に行きますが、男性的な力強さ、美しさを感じる城で、

行くとパワーをもらえます。

こんな城を設計した護佐丸は武士として勇敢で気高く、皆から尊敬される人物であったろうと感じます。

百十踏揚 家系図 父 尚泰久王

百十踏揚の父は第一尚氏6代目国王、尚泰久(しょうたいきゅう)。

国王になる前は越来王子(ごえくおうじ)と呼ばれていました。

兄である5代目国王金福の薨去後、王位をめぐって志魯・布里(しろ・ふり)の乱が勃発。

甥の志魯は命を落とし、叔父である布里は首里を追われました。

その為、越来王子が王位を継承し、6代目国王尚泰久となったのです。

ちなみにこの王位争いで、首里の正殿は焼け落ちました。

王位をめぐって骨肉の争い。

今でこそ、「命どぅ宝」の精神を大切にしている沖縄の人々ですが、

百十踏揚が生きた時代は、まだ戦世(いくさゆー)の残火がくすぶっていた、

ということが感じられます。

百十踏揚 家系図 兄弟

百十踏揚には、兄一人、弟が三人います。

弟三人のうちの一人は、父、尚泰久王の側室、宮里阿護母志良礼(みやざとあごむしられ)の息子です。

つまり、俗にいう「腹違いの弟」ということになります。

まず、兄の安次富金橋(あしとみかなはし)。

弟の三津葉多武喜(みつばたぶき)。

次に、尚徳(しょうとく)。

側室の息子で、尚泰久王の後を注いで、7代目国王となった人物です。

一番下の弟は、八幡加那志(はちまんがなし)です。

弟たちの名前は、読み方がとても難しいですね。

ですが、高貴な身分がよく現れていて、どれもとても雅で美しい名前です。

踏揚の弟たちは、側室の息子である尚徳が即位した時に、都を離れ南部へと移り住みました。

百十踏揚 家系図 最初の夫 阿麻和利とは?

ここからはいよいよ、百十踏揚の二人の夫について紹介します。

百十踏揚には、”時代の波に翻弄された悲劇の王女”といった形容詞が加えられることがありますが、

それは、百十踏揚の夫が二人とも非業の死を遂げていることに由来しているのでしょう。

まずは最初の夫、阿麻和利(あまわり)についてご紹介します。

勝連城最後の按司 阿麻和利

百十踏揚の最初の夫、阿麻和利は勝連城(かつれんじょう)最後の按司。

阿麻和利は謎の多い人物で、出自もはっきりしません。

出生年、不明、没年は1458年です。

一説によると、当時の北谷間切り屋良村(ちゃたんまぎり やらむら)に生まれたが、

親に捨てられ、幼いながらに生きる術を身につけ、勝連半島に流れ着きました。

才知溢れる阿麻和利は、平民たちを魅了し信頼を得ました。

そして当時勝連を治めていた悪名高き茂知附按司(もちづきあじ)を討伐して、

勝連の按司となったのです。

人望の厚さと才覚で、勝連を繁栄に導いた阿麻和利。

彼は、次第に琉球王府の脅威となったため、尚泰久は娘の百十踏揚を阿麻和利に嫁がせます。

俗にいう「政略結婚」です。

しかし阿麻和利は、琉球王府の義理の息子という地位を得ただけでは

満足できないほどの野心家だったと歴史では言われています。

つまり国王の座を狙っていたのではないか?と。

そこで阿麻和利は、まずは目の上のたんこぶである護佐丸に謀反の疑いがかかるよう仕向け、

護佐丸を死に追いやりました。

勢いづいた阿麻和利は、王府に攻め入ろうと画策しますが、

大城賢雄(おおしろけんゆう)率いる王府軍によって討たれてしまうのです。

こうして百十踏揚は、未亡人となり首里へと戻りました。

このように、阿麻和利はこれまでずっと王府に謀反を企てた「逆賊」として語られてきました。

1745年に、琉球王国の正史として編纂された「球陽」には、阿麻和利について

”才知余有りて徳義法無し”

とあります。

頭はいいけど、人徳もなければ義理もないし、道理がなってない、というような人物評価です。

確かに、出自もよくわからないような男を、王女の婿に迎えた王府の恩も忘れて、

謀反を企てるとは何事か!と言ったところでしょう。

百十踏揚にしても、それまで王女として蝶よ花よと周りから大切に扱われてきたのに、

いきなり首里から遠く離れた勝連半島に、しかも元は農民の子とも言われる男のところに

嫁がなくてはいけなかったなんて、さぞかし辛かったことでしょう。

でも、女性は政治の道具のような扱いをされることが普通、という時代でした。

抵抗する選択肢はなかったと思われます。

阿麻和利に関しては、「おもろそうし」(琉球最古の歌集)の中にある彼を讃える歌が注目され、

その人物像は近年、見直されています。

阿麻和利については別記事で詳しく紹介していますので、興味のある方はこちらの記事をどうぞ。

阿麻和利とは?何をした人?誰に殺され、どのような最後を迎えたのか?
沖縄県うるま市にある勝連城、最後の按司(あじ」)、阿麻和利。長い間、琉球王府に謀反を企てた逆賊と言われてきた琉球王朝時代の人物です。しかし近年では、勝連の民に慕われた英雄的存在という見方も出てきています。また、沖縄の伝統芸能である組踊の『二...

百十踏揚 家系図 2番目の夫 大城賢雄

大城賢雄は、鬼大城(うにうふぐしく)賢雄とも呼ばれるほどの武将でした。

唐名は、夏居数(かきょすう)。

阿麻和利討伐後、越来間切(ごえくまぎり)、美里(みさと)、具志川(ぐしかわ)一帯の

総地頭主となったため、後には越来賢雄と呼ばれました。

出征年は不明。没年は1469年。

大城賢雄は、沖縄県本島中部を支配した安慶名大川按司(あげなおおかわあじ)を曾孫です。

父、喜屋武按司(きゃんあじ)二世の栄野比大屋子(えのびおおやこ)は賢雄が幼い時に亡くなりました。

そのため当時、越来一帯を治めていた越来王子こと、後の尚泰久に仕えていた賢雄。

おそらく、百十踏揚のことは子供の頃からよく知っていたのではないかと思われます。

大城賢雄は、越来王子が尚泰久として王位についた際、ともに首里王府に上がりました。

また、百十踏揚が勝連に嫁いだ際には、付き人として勝連に赴いています。

王府の命令により阿麻和利を討伐したのが、この大城賢雄です。

阿麻和利を倒した後、越来一帯の総地頭主となった賢雄は、百十踏揚を妻として迎え入れました。

阿麻和利びいきの私としては、阿麻和利亡き後、百十踏揚が大城賢雄と再婚したのは少し残念。

未亡人となった百十踏揚が、元は夫の部下でもあった大城賢雄に恋愛感情を抱いて、再婚した…

そんなふうに捉えるとがっかりします。

一方で、当時の時代的な価値観から推察するに、大城賢雄の手柄を讃えるご褒美として、百十踏揚は献上された、

という捉え方もできなくありません。

真相は分かりませんが、歴史家の中には次のように考える人もいるようです。

”鬼大城と百十踏揚の間には、勝連にいた頃からすでに内通する条件が備わっていた(中略)二人は内通しそれをかくすために、阿麻和利に叛意があると、偽りの訴えをした

(「真説阿麻和利考」より、新里金福氏の説として言及)

また、昭和52年に作成された勝連教育委員会「史跡・勝連城趾保存管理計画策定報告書」の中では、

「百十踏揚のそばには常に大城賢雄がいたが、阿麻和利とは形だけの妻であったようだ」といった記述もあります。

どちらにしろ、百十踏揚は2番目の夫、大城賢雄も男たちの政権争いの中で失ってしまうことになります。

政治のために結婚させられ、政治のために夫を失う。

まさに運命に翻弄された、”悲劇の王女”としか言いようがありません。

百十踏揚 家系図 金丸によるクーデター後

尚泰久王逝去後、側室の息子、尚徳が王位を継承。

尚徳王はかなりワンマンで横暴な君主だったようです。

結果、尚徳王に不満を募らせていた王府の役人たちは、彼が若くして亡くなった後、クーデターを起こしました。

そして尚泰久の側近であった金丸が王位につき、尚円王と名乗ったのです。

金丸は王族でもなんでもないですけどね。

第2尚氏王統の始まりです。

さて、この尚円王。

残念ながら、百十踏揚の夫である大城賢雄とは反りが合わず、

結果、大城賢雄は尚円王によって討伐されてしまいます。

洞窟の中で火攻めにあって、非業の死を遂げたのだとか。

またもや、未亡人となってしまった百十踏揚。

王府には向かった賢雄の未亡人ということで、百十踏揚も追われる身となり、

兄や弟たちのいる、現在の南城市、玉城(たまぐすく)へと落ちのびました。

波瀾万丈の人生でしたが、最後は弟の多武喜と静かに余生を送ったということです。

高貴な身分から一転、追われる身になってしまうとは…。

ちなみに、「百十踏揚」という名前は、1000回踏上がる、という意味が込められている。

そんな話を、歴史研究家であり放送作家の嘉数仁然氏がおっしゃっていました。

ある意味、百十の人生は名前の通りになったと言えますね。

しかし高く上り詰めた後、大きく落ちてしまった…。

私だったらこんなに振れ幅の大きい人生は耐えられませんが、

しっかり耐えて最後まで生き抜いた百十踏揚は、やはり凡人とは違う器の大きさを感じます。

百十踏揚 家系図 子はいたのか?

百十踏揚が二人の夫との間に子供を儲けた、という史実はありません。

しかしとある国王の系譜では、大城賢雄との間に一子あったと思わせる記述があるとか。

氏は賢雄の夏氏でもなければ、百十踏揚の尚氏とも記されておらず、詳細は不明です。

ちなみに琉球歴史小説「百十踏揚」(与並岳生(よなみたけお)著)では、

阿麻和利との間にできた子を2度流産、大城賢雄との間には思徳という息子を授かっています。

あくまで小説の中の話です。

しかし著書の与並さんは、元琉球新報の記者ですので、

そのような仮説が立つような資料に基づいて小説を書いたのかもしれません。

史実通り実子はいなかったと仮定しても、百十踏揚の血を受け継ぐ子孫はいらっしゃいます。

長男である安次冨金橋の後裔は、安次富家、

弟の三津葉多武喜の末裔は仲栄眞家、

八幡加那志の末裔は習氏です。

百十踏揚は弟の多武喜とともに葬られています。

私はお墓に行ったことがありますが、掃除が行き届き花もお供えされていました。

子孫の方々が、しっかりとお墓を守っていらっしゃるようです。

まとめ

以上、百十踏揚と彼女を取り巻く歴史上の人物の相関関係をまとめました。

王権争いの波に翻弄され、最後は都落ちしてしまった百十踏揚ですが、

自分の運命を静かに、そして潔く受け入れていたのかもしれません。

記事をまとめていて、踏揚の周りには歴史的に有名な人物が多い、と改めて感じました。

そしてみなさん、謎が多いです。

実際はどうだったんだろう?ともどかしい気持ちにさせられる反面、

はっきりわからないからこそ、もっと知りたくなってしまいますね。

今後も新しい情報が分かり次第、更新していきます!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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