尚円王 クーデター 金丸とは? 王権交代の経緯 「尚」を名乗った理由

沖縄の歴史

琉球王朝の歴史には「第一尚氏」と「第二尚氏」といわれる2つの王統があったことをご存知でしょうか?

この記事では、第二尚氏の始祖である、尚円王(金丸)について詳しく解説していきます。

金丸の出身地は本当に伊是名なのか?

百姓の子、と言われているが本当は王族の血を引いていたのでは?

金丸が即位したのは、クーデターではなく周りからの要望だったのか?

など、金丸による王権交代の経緯についても解説しています。

第二尚氏が編纂した史書「中山世鑑」の内容とは違った仮説も紹介しています。

是非、最後までお読みください。

 

尚円王 クーデターを起こした金丸とは?

まずは、尚円王が即位する前、つまり金丸と呼ばれていた頃のことを振り返ります。

伊是名島を追われた金丸

琉球の史書「中山世鑑」には、

金丸は1415年、伊是名島首見(しょみ、現在は「諸見」)生まれ。

両親は百姓。

祖先は不明だが、そらく先の中山王の血をひいていた。

童名は、思徳金(うみとくがに)、とあります。

先の中山王、というのは、第一尚氏の王族のことを指します。

つまり、金丸一家は元々は高貴な家系であった、ということを示唆しているのです。

さて、伊是名島では農業に従事し、大変な働き者だったという金丸。

また容姿端麗で、島の娘たちの人気者だったと言い伝えられています。

どれほどモテたかを歌った琉歌も残っています。

”北の松金が、いぢちゅ御衣召しょち。おじゃんなし振りや、拝みぶしゃぬ”

(金丸が短い着物を着て田植えしている姿を拝みたいものだ)

着物の裾を捲り上げて田植えしている姿ですら、うっとり見惚れてしまうほどの美男子…

会ったことがない私には、想像するのが少し難しいです。

そんな金丸に、事件が起きたのは1438年。

この年は、ひどい旱魃で、島の畑が全て干上がったのに、

何故か、金丸の畑だけは水がなみなみとしていた…。

その為、金丸は島の人々から水泥棒の疑いをかけられてしまいます。

島に居場所がなくなってしまった金丸は、妻と幼い弟を連れ島を出て、

琉球国本島の北部、国頭(くにがみ)に辿り着きます。

しかしどこに行っても女性にモテてしまう金丸は、村の男たちに嫉妬され、土地を転々。

最終的には琉球国中部、越来城の城主であった越来王子(ごえくおうじ)に仕えることになったのです。

以上、紹介した内容が、金丸の出自について一般的に知られていることです。

金丸は本当に伊是名島出身だったのか?

琉球の歴史について多数、書籍を出版している亀島靖氏は、

次のような見解を「琉球歴史の謎とロマンその2」の中で述べています。

金丸が容姿端麗だったのは、もともと倭人の血を引いてからではないか?

また「倭人の血を引いている」ということで、常々、よそ者扱いを受けていたのではないか?

そしてそれが理由で、島を出たのではないか?

更に、亀島氏は第一尚氏の始祖である鮫川大主(さめかわうふしゅ)についても触れています。

※ 鮫川大主は、「中山世鑑」に登場する人物で、琉球王国初代国王尚思紹の父とされる人物

鮫川大主は、伊是名島の隣の島、伊平屋島の出身。

倭人の血を引いていた可能性があると言われています。

越来王子が金丸を臣家として受け入れたのは、お互い倭人の血を引く者同士だったからかも、

というのが亀島氏の推測です。

また別の見解もあります。

「ほんとうの琉球の歴史~神人が聞いた真実の声~」の著者、渡久地十美子氏は、

金丸は今帰仁(なきじん)出身で、北山に仕えた役人だったと言っています。

これはかなり斬新な見解ですね。

神人(かみんちゅ)である渡久地さんは、歴史上の有名人物の声を聞くことができるそうです。

かつて薩摩が琉球に侵攻してきた時、琉球の人々が大切にしている先祖崇拝は弾圧を受けました。

御香炉を集めて破棄させられた経緯もある為、第二尚氏発祥の地もあえて別の場所と偽ることで、

墓が荒らされないように守った、と言うのです。

霊の声が聞こえるなんて、非科学的な…

と感じる人もいるかもしれませんが、この本を読むと納得できることが多いので、

興味のある方は是非、読んでみられることをお勧めします。

話を戻して、金丸の出自を隠すにしろ、何故伊江島が選ばれたのか?

それは第一尚氏の始祖、鮫川大主が伊平屋島出身であったためです。

そうすることで、「中山世鑑」に書いてある

「先の中山王の血を引いていると思われる」ということにも信憑性が出てくるからです。

金丸が百姓の子ではなく北山の役人だったという仮説について、渡久地さんは次のようにも述べています。

つまり、いくら金丸が頭の良い人であったにしろ、

一介の農民が国王にまで成り上がったというのは、さすがに無理があるだろう、と。

これには私もすごく納得しました。

人の心を掴み信頼を勝ち得る能力などは天性のものだったとしても、

百姓として生活してきた金丸が、島を出た後、どうやって読み書きなどの教養を身につけたのか?

大きな疑問が残ります。

尚円王 クーデターに至るまで

首里王府へあがった金丸。

越来王子に仕えるようになり、篤い信頼を得ました。

その結果、越来王子からの推薦で琉球王府の下級役人、赤頭(あくがみ)の職をつきます。

同僚からも信頼されていたという金丸は、黄冠(おうかん)という中級役人へ出世。

その頃、尚金福が薨去します。

すると金福の息子、志魯(しろ)と、兄の布里(ふり)の間で王位争いが起こり、二人は滅亡。

越来王子が尚泰久(しょうたいきゅう)王に即位します。

金丸にとってはすごい追い風だったことでしょう。

結果、金丸は西原間切の地頭に任命。

更には、御物城御鎖之側(おものぐすくうさすのそば)という重要な職も任されました。

御物城(おものぐすく)というのは、那覇港の王家所有の貿易倉庫。

それを監督する職が御鎖之側(うさのすば)。

琉球王国は諸外国との貿易で栄えた海洋国家ですから、

王府の財源とも直結していますし、外交にも関わる職です。

尚泰久王がいかに金丸を信頼していたかがわかります。

ちなみに、金丸が御物城御鎖之側に抜擢されたのは、護佐丸と阿麻和利の両名が滅ぼされた翌年。

琉球王府の脅威であった二人の按司を倒したご褒美だったのか?

個人的にはそんな想像も働きます。

 

尚円王 クーデターの原因は、若き王との確執?

さてここからは、金丸がクーデターを起こし、尚円王となった経緯について紹介します。

1460年に尚泰久王が亡くなり、まだ20歳そこそこの若い王が誕生します。

7代目国王にして、第一尚氏王統最後の王、尚徳です。

まだ若かった尚徳は最初は、父、尚泰久の信頼が厚かった金丸の言葉によく聞き従っていたと言います。

しかし、ある時、奄美諸島群、喜界島(きかいじま)への遠征を巡って金丸と意見が真っ向から対立。

当時、喜界島は琉球王国に対し反抗的な姿勢をとっていた為、

尚徳は武力でこれを弾圧しようとしたのですが、金丸がこれに反対。

しかし尚徳は金丸の意見を無視して喜界島に攻め入ったところ、制圧に成功します。

ますます自信をつけた尚徳は、一挙に暴走し始めたのです。

王から疎んじられるようになった金丸。

尚徳王に9年間仕えた後、自身の領地である内間間切で隠居生活を始めました。

尚徳王は、王の子として生まれ、周りの人から歯向かわれる経験などない、言ってみれば「ボンボン育ち」。

結果、自分の思い通りにならない人間は、力で押さえつけ無理やり従わせる!

そんな発想になるのも理解できなくはありません。

しかしそれでは人の心は離れていく…。

もっと別なやり方を考えましょう。

と金丸が言ったかどうかはわかりません。

しかしおそらく、金丸は人の心を巧く手懐けながら世渡りしてきた人だったでしょうから、

二人が人間的に合わなかったのも納得できる気がします。

また、戦はお金もかかります。

王府のお財布事情を、職業柄、よく分かっていた金丸は、

余計な出費を抑えたかったことも容易に想像がつきます。

尚円王 即位はクーデターではなく周りの要望?

金丸が隠居してわずか1年後、尚徳は1469年に29歳の若さで急逝。

結果、金丸が即位し「尚円王」となりました。

この経緯について「中山世鑑」には、

金丸は頑なに辞退しようとしたが、周りからの要望で仕方なく王位につくことを了承した、

というような内容が書かれています。

つまり、金丸本人が即位することに積極的だったわけではない、ということを言いたいのでしょう。

ちなみに尚徳がどうやって亡くなったかは諸説あります。

病気、毒殺、入水自殺など。

いずれにしろ、王府の高官たちは尚徳の幼い息子「中和」を即位させようとしました。

そうすれば、政治を自分たちの意のままにできるからです。

しかしそこに現れたのが、安里大親(あさとうふや)という謎の老人。

”物きゆーすど、我が主。内間御鎖(金丸)ど、我が御主”

(国民が安心して生活できるようにするのが国の主。金丸こそが、私の国主だ)

と唱え、金丸を王に推した為に評議が覆ったと言われています。

(「琉球歴史の謎とロマンその2」 亀島靖 著より)

このようにして、尚徳亡き後、金丸が王になったというのが定説です。

しかし朝鮮王朝の「海東諸国記」という文書の中には、その定説を覆すような記述もあるのです。

※海東諸国記とは、王命により申叔舟(しんしゅくしゅう)が記した日本と琉球に関する書

”今の王の名は中和、時に未だ号さず。年16なり”

これは1471年に琉球から来た特使の言葉として、記録されているものです。

この記述が真実なら、1469年に尚徳が薨去した後、息子の中和が即位していたことになります。

とするとやはり、金丸とその側近たちがクーデターを起こして王位を奪ったということになりますね。

ちなみに、別の史書「球陽」には、

”王妃、乳母、世子を擁着し真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す”

とあります。

私はこの記述から、第一尚氏王統の血を絶やしてしまおう、といった不穏な空気が感じられます。

また、かつては金丸とともに尚泰久王に仕えた大城賢雄も、

金丸の即位に反対した結果、火攻めに遭い殺されたと言われています。

自分を支持しない人間は根絶する、といった感じでしょうか?

こういった動きを見ると、やはりクーデターが起きたと見るのが妥当な気がします。

若き王の悪政で、王府内では高官と役人との間で対立も深まっていたようですし。

また一般的に言われているように、金丸が百姓から一挙に出世階段を駆け上がった人物であるなら、

金丸は相当の野心家で策略家、クーデターでも起こしかねない、という印象を私は持ってしまいます。

いずれにしろ、1469年、尚徳の薨去により第一尚氏王統が終わり、

金丸尚円王率いる第二尚氏王統が幕を開けしました。

 

尚円王 クーデター後 何故「尚」を名乗り続けたのか?

「中山世鑑」では、金丸は第一尚氏と何らかの血縁関係にあったことが示唆されています。

しかし、第一尚氏の歴代王族と直接の血縁関係にはありません。

にも関わらず、何故「尚」の名を名乗り続けたのでしょうか?

それは、琉球王国が中国皇帝との間に冊封(さくほう、さっぽう)関係を結んでいたことが

大きな理由と考えられます。

「尚」という姓は中国の皇帝から賜ったものとされています。

ですので、中国に送るさまざまな公文書などには皇帝から与えられた琉球国王の印が使用されていました。

もしも金丸が、王統が交代になったという理由で「尚」という姓を変えたとしたら、

その印も変えなくてはいけません。

そして何より、中国の皇帝に王権交代があったことを説明しなければいけません。

そうなると非常に複雑な手続きが必要で、時間と労力もかかります。

また金丸がもしもクーデターにより王権を奪ったのであれば、皇帝に何と説明するのか?

私だったらそんな面倒くさいこと考えたくありません。

下手な説明をすれば白い目で見られかねない、と不安にもなります。

それなら「尚」の名を受け継いだほうが簡単ですし、人によっては「血縁関係にあったんだ」

と思ってくれるかもしれません。

「尚」の姓を受け継ぐ方が、色々な点で金丸にとっても都合が良かったのはないでしょうか?

まとめ

以上、尚円王が金丸だった時代にどのように出世街道を登りつめ、

第二尚氏初代王に成り上がって行ったかをまとめました。

歴史は勝者によって塗り替えられる、という言葉にもあるように、

「中山世鑑」は第二尚氏によって編み出された史書ですので、

全てを鵜呑みにするのは慎重にならざるを得ません。

加えて、琉球王国は薩摩からの支配、そして沖縄県になってからは第二次大戦の地上戦に巻き込まれ、

多くの歴史的資料が失われてしまいました。

そのため、尚円王についても色々な仮説が成り立ちます。

今回は、尚円王について、定説とは違った見解もご紹介しました。

それも歴史探究の一つの醍醐味として楽しんでいただければ幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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