大城賢雄は、琉球王国第一尚氏6代目国王、尚泰久に仕えた武将です。
別名、「鬼大城」と呼ばれるこの武将。
どのような人だったのでしょうか?
”悲劇の女王”と呼ばれる百十踏揚や、
”琉球史上一番の悪人”と呼ばれた阿麻和利との関係、
そして賢雄の最後はどのようなものだったのか?
様々な角度から、大城賢雄という人について考察しています。
どうぞ最後までお読みください。
大城賢雄 「鬼大城」という名の由来
大城賢雄(おおしろけんゆう)は、「鬼大城賢雄(うふうにぐしくけんゆう)」
「越来賢雄(ごえくけんゆう)」など、
いく通りかの名前で呼ばれています。
琉球王国の正史を記した書物「球陽」には、大城賢雄について
「その人となりや忠義剛直にして武勇無比、勢い狼虎(ろうこ)の如し、
これによりて当時の人、鬼大城と呼ぶ」
とあります。
鬼のように筋肉隆々で強かったということでしょうか?
身長が2メートルもある巨体であったとも伝わります。
現代人の私の感覚からすると、「鬼」と言う表現は、非情で冷徹な怖い人だったのかな?
というような想像も湧いてきます。
実際はどんな人だったのでしょうね。
更にもう一つの呼び方は、「越来賢雄(ごえくけんゆう)」。
これは、賢雄が阿麻和利(あまわり)を討伐した功績により、
越来間切(ごえくまぎり)、美里(みさと)、具志川(ぐしかわ)の総地頭(そうじとう)となったことに由来します。
賢雄の名前について、もう一つ付け加えておくと、「夏居数(かきょすう)」という唐名もあります。
琉球王国時代は、中国と冊封(さくほう、さっぽう)関係にありました。
※ 冊封関係とは、中国の皇帝と君臣の関係を結ぶこと
ですので、賢雄のような士族は中国風の名前が必要となることもあったのでしょう。
唐名は外交文書などに使われたようです。
「夏」という氏は、夏王朝の王族が使用した氏。
賢雄はその家系にルーツがあると言われています。
琉球風の名前と中国風の名前、2つ名前を持っていたのですね。
私にはそのような経験がないのでわかりませんが、
名前が変わると自分のセルフイメージやアイデンティティも変わったりするものなのでしょうか?
私だったら、名前によって人格も変わりそうです。
大城賢雄 百十踏揚との運命の出会い
大城賢雄の正確な生まれ年は不明、1469年没。
1420年頃、具志川の喜屋武城(きゃんぐすく)で、生まれました。
父は喜屋武按司一世の息子、栄野比大屋子(えのびうふやこ)。
父は賢雄が幼い頃に亡くなってしまったため、当時、越来城の越来王子に仕えることになります。
この越来王子が、のちの琉球国王、尚泰久(しょうたいきゅう)。
そして彼の娘が、賢雄が阿麻和利討伐後に、娶ることとなった百十踏揚(ももとふみあがり)です。
つまり大城賢雄は、まだ百十(ももと)が幼い頃から彼女のことをずっと見てきた可能性があります。
一説では、百十に恋心を抱いており、それが阿麻和利討伐の一因ではないかとも言われています。
大城賢雄と阿麻和利は従兄弟同士!?
阿麻和利の出自については諸説あります。
貧しい農民の子とも言われますし、高貴な身分の男性と平民の女性との間に生まれた子、とする説もあります。
更には、中北山の末裔、屋良大川按司(やらおおかわあじ)と南山末裔の兼城若按司(かねぐすくわかあじ)の娘との間に生まれた子供では?という説も。
仮に阿麻和利が屋良大川按司の息子とすると、賢雄とは従兄弟同士ということになります。
何故なら、屋良大川按司と、賢雄の父、喜屋武按司は二人とも、安慶名大川按司(あげなおおかわあじ)の息子たちだからです。
真相は分かりません。
しかしこれが真実だとしたら、大城賢雄、百十踏揚、阿麻和利はなんとも複雑な三角関係です。
”運命の悪戯”という言葉が、ぴったり当てはまるように感じるのは私だけでしょうか?
大城賢雄 死の経緯はクーデターではなく暗殺!?
阿麻和利護佐丸の乱により、護佐丸亡き後、勢いづいた阿麻和利。
王位を狙い首里に攻め入る準備をしていたのを察知した大城賢雄は、阿麻和利を倒しました。
このことについては、阿麻和利や百十踏揚の記事で詳細に紹介していますので、参考にしてください。
この記事では、賢雄のその後について紹介します。
越来の総地頭となった大城賢雄は、金丸とその側近たちによるクーデターが起こった際、
対立して滅ぼされたと言われています。
私もてっきりそうだと思っていました。
ですが、実はクーデターが起こるよりもはるか前、第一尚氏の王府によって滅ぼされた、
という尚泰久王の命による誅殺説もあります。
沖縄学の父、と言われる民俗学者 伊波普猷(いはふゆう)も後者の見解だったようです。
尚泰久が王に即位するよりもずっと以前から、彼を支えてきた大城賢雄は何故、討たれたのか?
阿麻和利が護佐丸を討ち、その阿麻和利を大城賢雄が討つ、という一連の流は、
そもそも王府の策略だったからという見方がその背景にあります。
尚泰久が王になる前の歴代王は、何故かいずれも短命。
さらに、王位を巡って叔父と甥が骨肉の争いを繰り広げるなど(志魯・布里の乱)、
王府内が何かと落ち着かなかった。
その為、護佐丸や阿麻和利といった有力な按司の危険因子を王府は取り除いておきたかったのです。
そこで、一役も二役も担わされたのが大城賢雄。
ですから、阿麻和利や護佐丸亡き後、賢雄は「王府の秘密を知りすぎた男」となったわけです。
尚泰久王は父の尚巴志と違って、戦や権力争いとはあまり縁がない王、という印象を私は持っていました。
以前読んだ「百十踏揚」という小説の影響かもしれません。
ですので、大城賢雄を利用して護佐丸や阿麻和利を滅ぼした策略家という見方は新鮮でした。
これには、のちの尚円王、金丸も一枚噛んでいると思われます。
それはまた別の機会にご紹介します。
尚泰久は巨額の費用を投じてたくさんのお寺や鐘を造ったと言います。
その中の一つがあの有名な「万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)」です。
王府安泰のために義理の父や娘婿を陥れた…
その罪悪感がそうさせたのかもなどと、私は憶測したくなります。
まとめ
以上、大城賢雄についてまとめました。
琉球王国時代の歴史を記した書物はいくつかあります。
しかし、それは書く人に都合よく変えられている可能性もあり、大城賢雄についても然り。
どれが本当のことか、今となっては分からないことも多いです。
この記事に書いた内容もあくまで、そういった説もありますよ、という一見解ですので、
ご了承ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
百十踏揚について詳しく知りたい方はこちらの記事をどうぞ

阿麻和利についての記事はこちら

大城賢雄、百十踏揚、阿麻和利をテーマにした舞台「肝高の阿麻和利」についての記事はこちらからどうぞ



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