琉球王朝「第一尚氏」と「第二尚氏」。
同じ「尚」という名を持ちながら、
実はこの二つの王統には、直接の血縁関係がないことをご存知でしたか?
第二尚氏の初代国王「尚円」は、王族でも貴族でもなく、伊是名島出身の百姓の子で
国王になる前の名は「金丸」。
公式の史書では「周りに推されて仕方なく即位した」とされていますが、
一方では、クーデターだったという説も。
この記事では、第一尚氏歴代国王について振り返り、
金丸と第一尚氏との関係、金丸ががどのように第二尚氏の初代国王に即位したのか、
更には、血縁関係がないにも関わらず、なぜ「尚」の名を引き継いだのかなど、
第一尚氏と第二尚氏にまつわる様々な疑問をわかりやすく解説しています。
ぜひ最後までお読みください。
琉球王朝 第二尚氏 第一尚氏との違いは?
現在「沖縄県」と呼ばれている島は、かつては「琉球国」という独立した王国でした。
琉球王国が始まったのは1429年。
1879年に明治政府によって王朝が解体された「琉球処分」まで約470年も続いた王朝ですが
その歴史は、第一尚氏王統と第二尚氏王統の二つの時代に分かれます。
ここで私も含め、人によっては混乱する点があります。
それが、第一尚氏と第二尚氏の関係。
結論を先に言うと、第一尚氏と第二尚氏の間には、直接の血縁関係がありません。
第二尚氏を興したのは、第一尚氏に長年仕えた家臣、金丸(かなまる)という人物。
つまり王族ではなく、臣下の身分から王に成り上がった、ということ。
しかも、クーデターによって政権を奪ったと考えられています。
では、なぜそのようなことが起きたのか?
まずは第一尚氏の歴史から振り返りましょう。
第二尚氏によるクーデター!?第一尚氏はなぜ滅んだのか?
第一尚氏王統が始まったのは1429年。
当時の琉球では、北山・中山・南山という3つの勢力が争う戦国時代が続いていました。
佐敷の按司だった尚巴志(しょうはし)が、中山の武寧王(ぶねいおう)を倒し、
父の思紹(ししょう)を中山王に擁立したのが1406年のこと。
その後、尚巴志は南山・北山を相次いで制圧し、琉球初の統一国家が成立しました。
つまり、第一尚氏の初代国王は尚巴志ではなく、父の尚思紹(しょうししょう)です。
私も以前は、尚巴志が初代国王と思っていました。
三山を統一した張本人ですし、琉球国の英雄として、今でも人気がありますからね。
でも実際には、尚巴志は父の逝去後に即位した2代目国王となります。
尚巴志の在位期間は17年。
68歳で亡くなるまで、安定した政権を維持しました。
しかしその後の歴代国王は、なぜか皆、在位期間が非常に短いのです。
単なる偶然とは考えにくいほど、即位後まもなく亡くなっています。
第一尚氏王統の系図を以下にまとめていますのでご覧ください。

5代目国王の尚金福(しょうきんぷく)が在位わずか3年で崩御した後は、
王位をめぐる骨肉の争い「志魯・布里(しろ・ふり)の乱」が勃発。
余談ですが、この時に首里城は焼け落ちています。
王族自らが首里城を消失させてしまうなんて、すごい話ですよね。
さらに、当時、王府を凌ぐほどの武力・財力を誇った按司(あじ)、
「阿麻和利・護佐丸(あまわり・ごさまる)の乱」も起きました。
第一尚氏最後の国王、尚徳(しょとく)に至っては、病死説・自殺説・毒殺説など諸説あり、
真実は闇の中ですが、そのこと自体が個人的にはとても怪しく感じます。
このように、尚巴志崩御後の第一尚氏は政権が不安定な状態が続いていました。
そのような状況の中、着々と力をつけていったのが、家臣の金丸だったのです。
虎視眈々と王位を狙っていたのでしょうか?
第二尚氏 金丸とはどんな人物だったのか?
琉球の史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」によると、
金丸は1415年に、伊是名島(いぜなじま)首見(現在の「諸見(すみ)」)で出生。
(1476年、没)。
童名は、思徳金(うみとくがに)。
大変な働き者でハンサムだったため、女性に人気があったと言われています。
両親は百姓だったが、祖先はおそらく先の中山王の血をひいていた、とあります。
”中山王”というのは、第一尚氏の王族のことを指します。
つまり、金丸は元々は高貴な家系であった、ということを示唆しているのです。
しかし金丸の出自については、別の見解もあります。
琉球の歴史に関する書籍を多数出版している亀島靖氏は、
「金丸が容姿端麗だったのは、もともと倭人の血を引いていたからではないか」
と「琉球歴史の謎とロマンその2」の中で述べています。
また「ほんとうの琉球の歴史」の著者、渡久地十美子氏は、
「金丸は今帰仁(なきじん)出身で北山に仕えた役人だった」という驚きの見解を述べています。
私が渡久地氏の説を聞いて「なるほど!」と思ったのは、
「いくら金丸が頭の良い人だったとしても、
一介の農民が国王にまで成り上がるのはさすがに無理がある」
という指摘。
確かに、百姓として生活してきた金丸が、
伊是名島を出た後、どうやって読み書きなどの教養を身につけたのか、
言われてみれば、私も疑問に思います。
もともと役人としての経験があったという説は、一見、突拍子もない感じがしますが、
その後の金丸の出世を見ても、かなり説得力があるように思います。
第二尚氏 金丸がクーデターを起こすまでの経緯
出世街道を順風満帆に登っていった金丸
ハンサムで女性に人気があった金丸は、日頃から島の男たちから嫉妬されていました。
そしてある年、島がひどい旱魃が襲われた時、島の男たちに水泥棒の疑いをかけられます。
島に居づらくなって、幼い弟と妻を連れて伊是名島を出た金丸。
琉球本島北部の国頭(くにがみ)に渡り、その後、場所を転々としながら、
最終的に琉球中部に落ち着きます。
そこで越来城の城主、越来王子(ごえくおうじ)に仕えることになった金丸は、
そこから一挙に出世街道を歩み始めます。
下級役人の赤頭(あくがみ)から中級役人の黄冠(おうかん)へと昇進。
さらに金丸にとってラッキーだったのは、
彼を信頼する越来王子が第6代目国王、尚泰久(しょうたいきゅう)王として即位したこと。
金丸は西原間切(にしはらまぎり)の領主となっただけでなく、
王府の財源と外交の両方に携わる高級官僚、
「御物城御鎖之側(おものぐすくうさすのそば)」にまで任命されました。
すごい大出世ですね。
私が最初に金丸という人物を知ったのが、現代版組踊「肝高の阿麻和利」だったせいか、
金丸は、狡猾な策略家、というイメージがどうしても拭い去れません。
ですが、金丸は政治家として能力が高かったことは確かでしょう。
一旦は政界を退いたものの…反旗を翻した!?
そんな順風満帆にみえた金丸のキャリアが一変したのは、
彼を全面的に信頼していた尚泰久王が亡くなった後です。
泰久の後を継いで即位したのは、まだ20歳そこそこの少年王、尚徳。
若き尚徳王はかなりの暴君だったと言い伝えられています。
尚徳にとっては、父親ほど歳の離れた家臣金丸はうるさい存在だったようです。
二人の関係に決定的な亀裂が入ったのは、
奄美諸島の喜界島(きかいじま)への遠征をめぐる意見の対立。
武力で喜界島を弾圧しようとした尚徳に対し、金丸は反対しました。
しかし尚徳は金丸の意見を無視して遠征を敢行し、制圧に成功。
ますます自信をつけた尚徳は暴走し始め、金丸は政界を退くことになりました。
しかしその隠居からわずか1年後、尚徳は1469年に29歳の若さで急逝。
死因は病死・毒殺・自殺など諸説あります。
そしてこの尚徳の死を機に、金丸が即位。
第二尚氏王統初代国王、尚円王(しょうえんおう)と名乗りました。
第一尚氏と第二尚氏 政権交代は家臣の強い要望?
金丸の即位について、第二尚氏王統の正史「中山世鑑」にはこのように記されています。
「金丸は頑なに辞退しようとしたが、周りからの要望で仕方なく即位した」
つまり、公式の記録では「クーデターではない」とされているわけです。
しかし別の史書「球陽」には、こんな記述があります。
「王妃、乳母、世子を擁着し真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す」
つまり、尚徳の王妃や幼い皇子までもが追っ手によって殺されたということです。
なぜ幼い子供や女性まで殺す必要があったのか。
第一尚氏王統の血を完全に絶やそうとしたのではないか、と考えたくなりますよね。
さらに、かつて金丸とともに尚泰久王に仕えた大城賢雄(うふぐしくけんゆう)も、
金丸の即位に反対した結果、火攻めによって殺されたと言われています。
自分に反旗を翻しそうな危険因子は徹底的に排除しておこう、というこれらの動き。
これを見ると、「周りに推されて仕方なく即位した」という公式記録の説明には、
どうしても疑問が残りますね。
自分を慕う家臣が勝手にやったことです、という説明も、
個人的にはちょっと無理がある気がします。
第二尚氏はなぜ「尚」の名を引き継いだのか?
第一尚氏との血縁関係が明確でないにもかかわらず、
金丸はなぜ「尚」という姓を引き継いだのでしょうか。
その理由として大きいのが、琉球王国が中国皇帝との間に結んでいた冊封(さくほう)関係です。
※冊封関係とは、中国歴代皇帝と周辺諸国との間で結ばれた君臣関係のこと
「尚」という姓は、第一尚氏初代国王の思紹が中国の皇帝から賜ったものとされており、
王府のさまざまな公文書にはその印が使用されていました。
もし金丸が「尚」の姓を変えていたとしたら、印も変えなければならず、
中国の皇帝に王権交代の経緯を説明する必要も生じます。
クーデターによって政権を奪ったのだとすれば、申し開きするのも大変そうです。
であれば「尚」の名を引き継ぐことで、余計な混乱を避けられる。
そして人によっては「血縁関係があったのだ」と思ってくれるかもしれない。
私はまさにそうでした。
同じ「尚」だから血縁関係はあるのだろう、と。
ただ、何故「第一」と「第二」と分けているのかな?という感じでした。
このように金丸にとって、「尚」の姓を受け継ぐことは、
いろいろな面で都合が良かったのでしょうね。
こうして始まった第二尚氏王統は、1469年から1879年まで実に410年間も続きました。
第一尚氏のわずか70年に比べると、金丸が築いた政権がいかに盤石だったかがわかります。
個人的にはあまり良い印象がない金丸ですが、
尚泰久王の絶大なる信頼を勝ち取った点や、政権交代の時に一定数の家臣が金丸を推した点など、
政治家としての素養は本物だったと言わざるを得ません。
まとめ
沖縄県はかつて「琉球国」という独立した国家でした。
その国を納めたのは、第一尚氏と第二尚氏という二つの王統。
第一尚氏に仕えた家臣金丸が、クーデターを起こし第二尚氏を興したと考えられます。
第二尚氏によって編み出された史書「中山世鑑」によると、
クーデターではなかったかのような書かれ方をしていますが、
歴史は勝者によって書き替えられるものです。
全てを鵜呑みにするのは慎重にならざるを得ません。
しかし王族ではない人物が王に即位したという点で、
やはり金丸は抜きん出た才覚の持ち主だったことは確かでしょう。
今回は、金丸の出自について定説とは違った見解もご紹介しました。
それも歴史探究の一つの醍醐味として楽しんでいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
金丸と同じ時代を生きた阿麻和利、大城賢雄についての記事はこちらです。


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