2026年11月、首里城の復興に併せて放送される琉球歴史ドラマ『尚寧』。
薩摩による武力侵攻、首里城明け渡し、江戸への連行、徳川家康との謁見など、
琉球の歴代国王が誰一人経験したことのない、幾多の試練に見舞われた尚寧王。
「悲劇の王」と呼んでも過言ではないでしょう。
三山統一を成し遂げ、琉球を統一国家に導いた尚巴志と同じくらい、
もっとその名を知られてもいいのではないかと、個人的には思います。
この記事では、尚寧王が成し遂げた偉業と、
薩摩侵攻によって尚寧王が下さざるを得なかった苦渋の決断の数々を、
琉球国と薩摩の関係性を交えながら、まとめました。
是非、最後までお読みください。
尚寧王とは どんな人か?
尚寧王(1564~1620)は、第二尚氏王統第7代目国王。
1589年に即位。
弱冠、25歳という若さだったのですね。
30歳にもならない若者が一国の国王に治まったというだけでも大変な重圧だったでしょう。
しかも、尚寧王は「浦添按司家」の出身。
「浦添按司家」とは、金丸の弟であり2代目国王であった尚宣威(しょうせんい)の系列。
第二尚氏王族からすると、いわゆる「分家」という位置付けです。
(尚寧王の家系については、別の記事で詳しく解説しています)
その為、尚寧王は「浦添から首里へ登った王」と讃えられ、
浦添グスクの人々からの期待を一心に背負っていました。
その一方では、尚寧王のことを快く思っていない王府の役人たちも。
そこで尚寧王は、自分の側近として、自分が最も信頼でき実弟、
具志頭王子(ぐしちゃんおうじ、 別名:尚宏 しょうこう)を摂政(しっしー)に任命。
※ 摂政・・国王の補佐役
また、叔父の浦添親方朝師(うらそえうぇーかたちょうし)を
三司官(さんじかん)として迎えています。
※ 三司官・・三人体制で国政を司る最高位の士族。
身内を迎えたところからは、浦添按司の名に恥じぬよう
琉球国のために尽くそうという、尚寧の並々ならぬ決意を個人的には感じます。
事実、尚寧王は王としてのリーダーシップを遺憾なく発揮し、
民のために偉業を成し遂げた行動力のある立派な青年王でした。
尚寧王 成し遂げた二つの偉業
尚寧王の主な偉業として、
- 西原間切から首里の間を流れる平良川に石造りの「太平橋」をかけた
- 浦添グスク周辺から首里までの道を整備した
ことが挙げられます。
重機も何もない時代、浦添から首里までの道を舗装するなんて、
気の遠くなるようなプロジェクトです。
ですが尚寧王がこのような一大事業に取り組んだのには、ちゃんとした理由がありました。
当時、琉球国には首里城~沖縄県本島中部(読谷村エリア)~北部(国頭地域)を結ぶ、
「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」と呼ばれる道がありました。
しかし浦添グスクの周辺は、雨になると道がぬかるみ、
増水した川を木製の橋で渡るのは非常に危険。
そこで尚寧王は、石造りの橋をかけ道も石畳みで舗装したというわけです。
この辺りを通る人たちの負担を、少しでも軽くしようとした尚寧王。
民のことを想う心優しい王のイメージが、湧いてきます。
尚寧王が舗装した石畳の道は、現在の浦添市安波茶橋(あはちゃばし)周辺に
部分的に復元され「尚寧王の道」として国の指定史跡となっています。
尚寧王 薩摩侵攻から首里城明け渡し 苦渋の決断
薩摩に”目をつけられた”琉球国
尚寧王は、琉球国史上最大の国難に直面した王としても知られています。
その国難とは、1609年の「薩摩侵攻」。
そもそも薩摩が琉球に”目をつけた”のは、琉球が明と冊封関係にあり、
明との貿易関係があったからです。
当時の薩摩は、明との正式な貿易ルートを持っていませんでした。
そこで琉球を武力で押さえつけ、琉球を支配下に置くと同時に明との冊封関係も容認。
そうすることで、琉球が貿易から得る利益を自分たちがかすめとろうと思いついたのです。
あまりにも野蛮すぎる!と感じるのは私だけでしょうか?
琉球国は勝手に借金を背負わされた!?
尚寧王が即位した頃、大和(当時の”日本”)では、豊臣秀吉による統一国家が誕生。
勢いづいた豊臣秀吉は、朝鮮に攻め入ることを企て、薩摩藩と琉球国に出兵を要請。
実はこの時、薩摩は秀吉に対して「琉球は薩摩藩の属国である」と吹聴していたのです。
それをそのまま信じていたから、秀吉は当たり前のように
琉球にも兵を出すように「命令」したわけですね。
琉球は独立国家。
それなのに勝手に薩摩藩の「附庸国」としたことに、個人的には強い憤りを感じます。
秀吉からの琉球国に対する出兵要請に慌てふためいた薩摩。
秀吉には体の良い言い訳をし、兵士ではなく兵糧米で折り合ってもらいます。
独立国である琉球からしてみれば、兵糧米ですら納める義理は全くないのですが。
薩摩は、琉球に課された兵糧米を立て替え、
琉球は結果的に”借金を背負わされた”形となりました。
そしてこの一件が、薩摩の琉球国に対する開戦理由となったのです。
「あの時、建て替えていた米を返せないなら奄美大島を割譲しろ!」と。
戦国時代を生き抜いてきた大和の武将と、
非武装国家であった琉球国とのあまりにも違いすぎる価値観。
個人的な想像ですが、当時の琉球の人々はさぞ戸惑ったことでしょう。
尚寧王の苦渋の決断
1609年3月上旬、奄美群島を攻め入った薩摩藩。
3月下旬には、沖縄本島北部、今帰仁(なきじん)にある運天(うんてん)港に侵攻。
4月には首里城明け渡しとなりました。
わずか1ヶ月のうちに奄美群島から沖縄本島まで制圧されたと聞いて、
私は最初、薩摩の圧倒的な軍事力に琉球は歯が立たなかったのだろうと思いました。
でも、そうではありませんでした。
琉球は、そもそも戦うつもりはなかったのです。
その為、和睦交渉を試みるも、交渉は不成立。
薩摩は、海と陸に分かれて進軍し首里を包囲。
この時、陸路からきた敵軍が尚寧王が整備した道や橋を利用したのは、なんとも皮肉な話です。
薩摩は本島北部から首里へと南下してくる際、
今帰仁城をはじめ宮殿や神社などに建物に火を放ち、
無力な平民たちも容赦無く殺戮したと言います。
その為、尚寧王は「これ以上の犠牲を出すことはできない」
と首里城明け渡したのです。
無茶な”言いがかり”をふっかけて、一方的に侵攻してきた薩摩。
もし私が尚寧王や三司官の1人だったら、徹底的に抵抗したくなります。
しかし尚寧王は、一国の王です。
個人的な感情や意地だけで、民を巻き込むわけにはいきません。
降伏という苦渋の決断を下さざるを得なかったのだと思います。
断腸の思いとは、まさにこの時の尚寧王の心情だったでしょう。
尚寧王 徳川家康・秀忠との謁見
首里城を明け渡した尚寧王は、1609年5月、江戸へ連行されます。
同行したのは、弟の具志頭王子やその他の側近、総勢100名余り。
駿府城で徳川家康と、江戸城では二代目将軍、秀忠と謁見した尚寧王。
敗戦国の捕虜としてではなく、大切な客人として丁重なもてなしを受けたと言います。
この部分だけ聞くと、「屈辱的な処遇を受けなくて良かった!」なんて、
私は単純に安心したのですが、徳川家の行動の裏には狡猾な計算が働いていました。
琉球国王一行を、「独立した国家からの客人」として迎えることで、
そのような要人から表敬訪問される将軍家の、権威をアピールすることができるからです。
また、明との冊封関係も容認することで、琉球を介して明との貿易ルートも確保できる。
これは、当初の目論見通りです。
尚寧王は、徳川家の丁重なもてなしの背景にこのような計算が働いていたことを、
どこまで認識していたでしょうか?
私には分かりませんが、もしも少しでも気づいていたなら、
この旅は尚寧王にとって堪え難い苦痛の連続だったはずです。
しかも尚寧王は、弟の具志頭王子もこの旅の途中で亡くしています。
さらに酷いのは、徳川家康が薩摩に対して、
「琉球を薩摩の領土とすることを許し、処遇も薩摩に一任する」という書簡を送っていたこと。
他人の尊厳をここまで踏みにじれるとは!
残酷です。
薩摩からの『掟十五ヶ条』への署名
さて、家康から琉球国を正式に”付庸国”として、認めてもらった薩摩藩。
琉球に対して薩摩からの支配要綱を書いた『掟十五ヶ条』なるものを突きつけ、
尚寧王と三司官に署名するよう求めました。
渋々、署名に応じた尚寧王ら。
しかし、署名を断固拒否した人物がいます。
それが三司官の一人、謝名親方鄭迵(じゃなうぇーかたていどう)です。
彼は薩摩に抵抗する悪人として、処刑されていました。
もしかしたら尚寧王も、謝名親方と気持ちは同じだったかもしれない、と個人的には思います。
大切な側近を失ったこと、不本意な署名に応じたこと、
色々な意味で無念だったことでしょう。
尚寧王の墓 何故 浦添ようどれに眠っているのか?
1611年10月、琉球に無事に帰還した尚寧王ですが、
そのわずか9年後の1620年、57歳で薨去。
尚寧王の亡骸は、第二尚氏王族の眠る「玉陵(たまうどぅん)」ではなく
浦添城の北側に位置する「浦添ようどれ」に葬られています。
何故、尚寧王は王墓の玉陵に葬られなかったのかについては、諸説あるようです。
一説には、第二尚氏初代国王尚円の妻で、第二国王尚宣威を失脚させた
宇喜也嘉(おぎやか)により浦添分家の一族が排除されたため、とする説。
つまり、分家出身の尚寧王はそもそも玉稜に入る権利がなかったということです。
もう一説には、尚寧王自身が薩摩藩に首里城を明け渡すなど屈服したことを恥じて、
玉陵に入ることを辞退した、という説。
確かにその可能性もあるかもしれませんね。
私は、国王として波瀾万丈の人生を送った尚寧は、亡くなった時には故郷の浦添に戻り、
そこで全ての重積から解き放たれ、静かに眠りたかったのではないかと思います。
まとめ
◉ 尚寧王(1564~1620)は、第二尚氏王統第7代目国王
◉ 首里王家の分家である浦添按司家出身で、1589年に即位
◉ 西原間切から首里の間を流れる平良川に石造りの「太平橋」をかけた
◉ 浦添グスク周辺から首里までの中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)を整備した
◉ 明との貿易関係を狙った薩摩藩により1609年に侵攻を受けた
◉ 武力での抵抗よりも和睦交渉を試みた
◉ 江戸に連行され、徳川家康 ・秀忠と謁見した
◉ 薩摩による不条理な『掟十五ヶ条』に署名するという苦渋の決断をした
◉ 第二尚氏王族の墓、玉陵ではなく、浦添ようどれに眠っている


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